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高良神社

石清水八幡宮に有名なお話があります。 徒然草第52段 現代語訳  仁和寺に暮らしていたある坊さんは、老体になるまで石清水八幡宮を拝んだことがなかったので、気が引けていた。ある日、思い立って、一人で歩いて参拝することにした。八幡宮の付属である山麓の、極楽寺と高良神社だけ拝んで「これで思いは遂げました」と思いこみ「八幡宮はこれだけか」と、山頂の本殿を拝まずに帰路の途についた。  帰ってから、友達に「前から思っていた事を、ついにやり遂げました。これまた、聞いていた以上に尊さ(八幡大神の御神威)を感じた。しかし、お参りしている方々が、みんな登山をなさっていたから、山の上でイベントでもあったのでしょうか? 行ってみたかったのですが、今回は参拝が目的だったので、余計な事はやめておこうと、山頂は見てこなかったのです」と語った。 どんな些細なことでも、案内者(指導者)がほしいという教訓である。 このお坊さんも頂上の本殿よりも山麓の極楽寺と高良神社に導かれたのかもしれません。それは、頂上よりも山麓の方が波動が高いことを意味するのかもしれません。 今回の聖地探訪も主催者が感ずるままに選ばれたここの場所がとても意味ある場所だったのだと思います。 この土地は3つの川が合流する場所の男山という山の麓にあたります。 3つの川とは三重県の伊賀上野青山高原付近を源流とする木津川、滋賀県のびわ湖及び金勝山(こんぜやま)、太神山(たなかみやま)を源流とする宇治川、前回の聖地探訪の志明院を源流とする賀茂川と少し上流で合流する佐々里峠の尾花谷の湧水を源流とする桂川、この木津川と宇治川と桂川が合流して淀川になるその付近、地図で見ると調度、渦が巻き起こりそうな地点に男山はあります。 高良神社の社名は当初「河原社」と称されていましたが、カワラ→カウラ→コウラと変化して「高良」の字を当てるようになったといわれています。 高良神社は一般的には「こうら神社」ですが、「たから神社」とも読めます。 これから起こることを書くにあたって、どうも腑に落ちないことが、ひとつだけあってなかなか書き進めなかったのですが、今朝、ふと腑に落ちたことがあって、やっと書き進めることができました。 高良神社の御祭神は『高良玉垂命』です。こうらたまたれのみこと様ですが、この神様が、どうも謎の多い神様で、よくわからないというのが本当のようです。 古事記や日本書紀にも書かれていない「隠された神」と言われるこの神様は、福岡県久留米市の高良山に鎮座する筑後国一宮の高良大社の主祭神です。朝廷から正一位を授かった神なのに正体が不明で、武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神、高麗神説等々たくさんの説があり、さらに日本中の神々が出雲に集うという神無月にも高良玉垂命は出雲に行かず、当地では10月を「神在り月」と言うというような謎に満ちた神様だそうです。 神か人か‥実はは宇宙人ではないかと思い腑に落ちました。 境内には樹齢700年のタブの木があります。 線香は主原料の杉の葉の粉を粘り気のあるタブの葉の粉を混ぜることにより固め、作られます。つまり、タブの木は神聖な木でもあるわけです。 その、タブの木に大黒様がお現われになり、打ち出の小槌をお振りになられたのです。 (Bさんが見られました) これは、何を意味するか分かりませんが、大黒様は福の神であり、お金(宝)ねずみを従えお米(農業)を司る神様です。しかも、元々は戦闘の神でもあり、強さも秘めています。 しかも、今回、お現われになられた大黒様はみろくの世をつくるために現れる「みろく大黒天様」だろうと思われます。 「高良玉垂神=みろく大黒天神=宇宙人」は正しい事をなす時には、必要な資金を用意して下さると信じます。 恵比寿様もお現われになったとようです。というか後でわかりましたが、高良玉垂の神は恵比寿様でもあると思いますので、もともとここにいらっしゃる神様です。大黒天様と恵比寿様はご夫婦です。 このときは太陽がさんさんと照り、タブの木を見上げると丁度、木葉の間から太陽の光がちらちらと差し込み、とても気持ちの良いひとときでした。 みんな木を見たり、写真を撮ったりと各々好きな事をしていました。 すると、ある参加者のひとりが撮られた写真に虹が写っているとの事で、みんな集まって感動していました。そして、おのおの写真をとりだしました。 そして、何枚か神秘的な写真が撮れたのです。


ところで、高良神社の御祭神は『高良玉垂命』様ですが、玉垂とは高良大社によると、干珠満珠を指すとの事です。つまり、潮の満ち引きを司る神であり、月の神様でもあるわけです。そして、玉を垂れるつまり与える神であり、海神=綿津見(わたつみ)神ともなります。恵比寿様でもあります。 干珠満珠とは山口県の下関に伝わる物語があり、それを読むとよく分かります。 干珠満珠物語(かんじゅまんじゅものがたり)  下関市 下関の長府の丘から沖の方を見ると、瀬戸内に潮の流れをよそに、二つの美しい緑の島が、なかよく並んでいるのが見える。 陸に近い方を干珠といい、沖に見える方を満珠という。この二つの島は、長府の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛地境内(忌宮神社が管理する土地)であるが、大昔から次のような話が伝えられている。 それは、今から千七百年ぐらい前のこと、神宮皇后(じんぐうこうごう 仲哀天皇のお妃)が、神のお告げを受けて、三韓征伐(さんかんせいばつ  その頃の朝鮮にあった新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)の三国を討つこと)をされるときの話である。朝鮮に渡るには、先ず、あの荒波で有名な玄界灘(げんかいなだ)を越えていかなければならない。 皇后は、この戦いは、大変苦しい戦いになると考えた。 そこで、皇后は、長府に豊浦の宮をおき、軍を整え、船を集め、いくさの準備をすすめた。準備が整うと、皇后は、転地のあらゆる神々をまつり、力添えとお守りをお願いした。特に、海の神でである、龍神の無事といくさの勝利を願った。 ちょうど満願の日のことであった。それまで風もなく、静まりかえっていた瀬戸の海が、にわかに黒雲におおわれ、強風にともなって大波が起こり、音をたててうずまき、狂いはじめた。その荒れ狂う波の中から、「皇后さま、皇后さま。私は瀬戸に住む住吉明神の化身でございます。」と、呼ぶ声が、皇后の耳に聞こえてきた。 みると、荒れ狂う大波の上に、白いひげを潮風になびかせながら、住吉明神が立っていた。そして、「三韓は、いずれも強い国でありますゆえ、ぜひ、龍神のお助けをおかりになるのがよかろうと存じます。ついては、安曇(あずみ)の磯良(いそら)というものを召されて、これを使者として、干珠・満珠の二つの珠を龍神よりかりうけられ、そのご神徳によって、いくさを勝利に進められるがよろしかろうと存じます。」とお告げになられた。 そこで、皇后は、さっそく、この海岸に住む安曇の磯良という若者をよびよせ、二つの珠を借りてこさせた。この二つの珠には、潮の満ち干を自由にすることができるふしぎな力があったのである。 皇后が、軍を整え、船を浮かべて、いざ海に乗り出すと、海原の魚たちはぴちぴちはねて門出を祝い、追い風をうけた船はすいすいと勢いにのって進んだ。そして、皇后は、朝鮮の沖の大きな島に陣をはって、戦いにそなえた。 いよいよ、待ち受けていた新羅の大群が、たくさんの軍船を連ねてせめてくるが、皇后は、先ず、潮干る珠を海に投げいれた。 するとどうだろう、みるみるうちに、潮がひいていき、海底が現われてきた。 新羅の軍団は、船底を海底につけて傾き、動けなくなってしまった。困り果てた新羅の兵は、とうとう船をおりて、海底を歩いて攻め寄せてきた。このようすをじっとみつめていた皇后は、敵の兵隊が、陸にあがろうとするときをみはからって、干満つ珠を、岸の近くに投げ入れた。すると、たちまち、どこからともなく海水が白波をたて、うちよせるようにして満ちてきて、みるみるうちにもとの海となった。 あわてふためいた新羅の兵たちは、逃げ場を失い、海水を飲み込み、つぎつぎにおぼれ沈んでしまった。 海底に傾いていた軍船も満ちてくる海水の勢いでひっくり返され、とうとう新羅の兵も軍船も、ぜんぶ滅びてしまったのである。 皇后は勇み立つ兵をはげまし、軍船を整えると、いよいよ三韓へわたり、一気に敵を打ち破り、三韓の貢物(みつぎもの)を献上させ、これから先ずっと、天皇に仕えることを誓わさせた。 こうして、皇后の軍船は、大波をけって堂々と長門の海に凱旋した。 皇后は、戦いの勝利をたいそう喜んで、干珠・満珠の徳をたたえられ、それを、龍神にお返しになる前に、お祝いの儀式をとり行うことにした。 その日は、瀬戸内の波もおだやかで、空も青く晴れわたり、まわりの山々も鮮やかな緑色にはえていた。皇后の軍団は、幾組も幾組も組をつくって、壇ノ浦から長門の浦にかけて並び、旗や槍を高くかざして、にぎやかな祭りの行事がくりひろげられた。その先頭の一番大きい軍船から、皇后はひときわ声を高くして、「わたくしたちが、このたびの戦で、三韓をくだして勝利をおさめ、ここにめでたく凱旋できたのは、みなのものの勇ましい働きによるものであることはもうすまでもない。 しかしここに、みなのものに告げて、ともにお礼を申さなければならないことがある。 それは、この海に住みたもう住吉明神のお導きによって、龍神より借り受けたこの干珠と満珠の二つの珠のご神徳である。 わたくしたちは、この珠のご神徳によって勝利をかちとったのである。いま、ここに、お礼を申すとともに、これを龍神にお返ししたいと思う。と言って、静かに二つの珠を海にしずまれたのであった。 すると、二つの珠がしずめられたあたりの海の上に、見るも鮮やかな美しい島が二つぽっかりと浮かびあがってきたのである。おどろいた兵士たちは、ただ目をまるくしてながめているばかりであった。 このふしぎなできごとをご覧になった皇后は、いちだんと声を高められ、「みなのもの、龍神はいま、この海に二つの島をつくりたもうた。 永遠に長門の浦をしずめたまうのである。熊襲(くまそ)はすでにたいらぎ、いままた三韓は貢物を献じてきている。こうして平和の波は末永くいつまでも干珠・満珠の岸を洗うのであろう。」 と、のべられたのである。 これを聞いた兵士たちは、われを忘れてとびあがり、いっせいにかちどきの声をあげ、 何度もさけび続けた。その声は、長門の浦にひびき、やがて関門海峡にすみずみまでひびきわたっていった。 このようにしてできた二つの島が干珠と満珠である。   

おわり また、和歌山県出身の合気道の創始者であり、出口王仁三郎師の弟子でもあった植芝盛平氏の『合気神髄』という本の中で合気道の呼吸について述べる時に高良の神が出て来ます。 「玉依姫」は白玉で潮干珠(しおひるたま)、「豊玉姫」は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが「高良玉垂の神」と。 そこで、思い出すのが、前回の聖地探訪、志明院での出来事です。 古代魚が現れ、みんなそれぞれ2つの玉をいただきました。 そして、今回はその二つの玉を使いこなすエネルギーを頂いたのかもしれません。 宝は宇宙を表すウ冠の中に玉があります。宇宙の玉が宝なのです。ですので冒頭に書いた『たから神社』にもつながるわけです。 写真1枚目に写っているのは宝を入れる壷のようなもの。2枚目に写っているのは如意宝珠でしょう。中に指を組んでいる手が見えます。 3枚目は中で打ち出の小づちが振るわれているとのことです。 如意宝珠(にょいほうしゅ)とは 神秘的な宝玉の名。欲するがままに種々の宝物をつくりだすといわれ,一説に竜王の脳の中にあり,これを手に入れると,多くの財宝が得られるだけでなく,毒にもおかされず,火にも焼かれないという。如意輪観音,地蔵菩薩などがこの宝珠を手に持ってその意を表わしている。 ブリタニカ国際大百科事典より 地球の26000年周期の歳差運動により真北を指す軸は少しずつずれていきます。神功皇后様がご活躍された時代(約2500年前)の真北を指し示す目印の星は北天に輝く「りゅう座α星 ツバーン」この星は約5,000年前の北極星です。それと「こぐま座α星ポラリス」この星は現在の北極星です。この2つでした。 実は「潮満珠」とは「豊玉姫」を意味し、その本質は「ツバーン」のことであり、また「潮干珠」とは「玉依姫」を意味し、その本質は「ポラリス」のことであるという説もあります。(『儺の國の星 』真鍋大覚 著) 「こうら」はぎょしゃ座α星「カペラ」がなまってついた名前という説もあります。 謎の神、高良玉垂命を祭る高良大社が鎮座する高良山の麓に「高樹神社」という神社があります。この神社の祭神は高皇産霊神(タカミムスビノカミ)で、「高木の神」とも言います。そしてこの神社にかかわる次のような興味深い伝説があります。 (高木神は)地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、神籠石を築かれて結界の地とされたために山上に戻れず、ここに鎮座するに到った、と社伝に書かれています。 この伝承は宇宙から何らかの目的でやってきた宇宙人が地主の神と交代して山上に鎮座したと受け取れなくもありません。 とにかく、高良神社をはじめ、ここから先は宇宙をたびたび感じるツアーでした。 高良神社を後にして次は石清水社へ向かいます。・・


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